ある特効薬によって救われた人が、その特効薬が世に出現する直前、その薬があれば当然助かったであろう病気でこの世を去った母を思うとき、なぜいま少し長生きするよう孝養を尽くさなかったかと、時に悔恨にも似た思いにさいなまれることであろう。この母を慰めるにはどうするか。それは、この世の一人でも多くの人がその薬の恵みを受け、少しでも死を時の彼方に押しやるようにつとめることであろう。
そのように―――長い修行によって神通力を得た目連尊者にしてみれば、釈尊の教えを受けずに死んだ母の姿はあまりにもみじめなものであったろうと思われる。早速自分の神通力で救おうとしたが救い得なかったので、目連尊者は釈尊に教えを乞うた。
「私は世尊に導かれてこのように人間的に成長しましたが、それだけに亡母がふびんでなりません。母の霊を慰めるにはどうしたらいいのでしよう」と。これに対して釈尊は、自分の母だけが救われればよいというように仏法は私すべきでない旨をさとし、「お前の救われたよろこびを一人でも多くの人びとに味わってもらうようにつとめる以外に亡母救済の道はない」と教えられた。
神通力を得た目連尊者には当初この反省がなかったのではなかろうか。亡母救済は利己心を去って供養のまことを尽くし、清らかな和によって結ばれる大衆運動によって成就するのであり、ここにお盆行事の意義がある。