神棚・神具神棚の起源は『古事記』に記されています。伊勢の神社は日本人の大御祖神、総氏神として古くから日本中の信仰を集めていました。
「御祓大麻」「大神宮様」と呼ばれた伊勢神宮のお神札が全国に頒布され、江戸時代の中頃にはほとんどの家庭でお祀りされていたようです。
当時の家庭ではお神札をお祀りするために大神宮棚という棚を設けていました。この大神宮棚が今日の神棚の原形といわれています。
神棚の前で手を合わせたい、神様をお祀りしたいと思ったときにご購入するのがよいでしょう。
また、神棚を新しく祀る場合、時期は年末に設置して年始めにお札を受けて祀るという場合が多いようです。これは正式に決まっているわけではなく、例えば家を新築した時や厄年の時、年祝の時、結婚した時や家庭に不幸が絶えない時などに神棚を新しくすることもあります。
地方によって毎年新しい神棚に取り替えるところもありますが、一般的には5年、10年、15年など、5年毎に区切って神棚を取り替えることが多いようです。
ただ、伊勢神宮が20年毎に社殿を建て替えているように、家庭の神棚も長くても20年に一度は新しくした方がよいでしょう。
また、神棚を新しくする時は、古い神棚よりも少し大きめのものにするか、造りの良いものにする方がよいとされています。この場合、古い神棚やお札はきちんと焼納しましょう。
神棚は明るくて清浄な高い場所(人々の目線よりも高い場所)に、南向きあるいは東向きに設けます。また、家族や会社の人が、お供えしたり拝礼したりするのに都合のよい場所であることも大切な条件でしょう。
ただし、人が出入りをする場所の上、たとえばドアの上であるとか障子や襖(ふすま)の鴨居(かもい)の上に、神棚を設けることは避けるてください。
家庭に神棚を設ける場合、場所としては座敷が一般的ですが、最近では座敷のない家庭も多くなったので、その場合は居間でもよいでしょう。会社の事務所の場合は、その長たる人の席の近くや中心となる場所が適当です。
神棚の中央には宮形を置き、その中にお神札を納めます。宮形が大きい場合には中央に神宮大麻を、向かって右側に氏神さま、左側にその他の崇敬する神社のお神札をお祀りします。宮形が小さい場合は、神宮大麻を一番手前にお祀りし、その後ろに氏神さま、次に崇敬する神社のお神札を重ねてお祀りします。お神札の数が増えて、宮形に納められない場合には、棚の上に丁寧に並べても差しつかえありません。
御輿とは、神霊が渡御するときの乗物です。神輿とも書き、「神輿」は“しんよ”とも読む。奈良時代の749年(天平勝宝1)、東大寺大仏建立に際して上京した、宇佐八幡神の紫色の輿が記録上の初見である。
御輿(神輿)の原型は諸説あり確定していないが、天皇の乗物の鳳輦(ほうれん)との比較検討も必要であろう。種類は多様であるが、基本的には台、胴、屋根からなり、台に2本の棒を貫く。木製、黒漆塗りで四角、六角、八角などの胴に美麗な装飾をほどこし、屋根には鳳凰(ほうおう)または葱花(そうか)を飾ったものもある。
現在各地の神社にあるものは、室町時代以降の製作のものが多い。特殊なものとして、芋茎(ずいき)を中心とした野菜でつくられている京都の北野天満宮の芋茎みこしや、熊野那智大社の扇みこしなどがある。 平安時代から、御霊(ごりょう)信仰の隆盛とともに御輿(神輿)が多く用いられ、また延暦寺の僧兵が、日吉大社の神威の具現として御輿(神輿)を振り、京都にかつぎ出しての強訴が行われたことも著名である。
また天皇の輿や神事の御輿(神輿)を専門的にかつぐ駕輿丁(かよちょう)もいた。御輿(神輿)の普及は中世以降の神幸祭の一般化によるとされる。御輿(神輿)をわざと振り立てたり、2基以上の御輿(神輿)が喧嘩の形をとったりすることが多く、また御輿(神輿)を河海に入れる浜降(はまおり)祭や川降祭をしたり、京都の梢蹟園社のように御輿(神輿)を洗う行事もみられる。
参考資料:『世界大百科事典』
膜状の物質、主として動物の革を張りつめて弾力をもたせ、これを打って音を出す楽器の総称。
原始時代から諸民族の中に深く浸透していた楽器の一種であり、最古のものは前約2500年、シュメールの浮彫に見られる。現在に至るまで多くの地域で呪術信仰と密接に結びついており、神聖視されていて、材料の選択や製作過程に厳格な掟をもつ地域もある。アフリカの民俗の中では、月・実り・母などの女性的象徴、太陽・再生などの男性的象徴となっているほか、一個の人格と同様に扱われて食物や犠(いけにえ)がささげられたり、悪霊払いにも広く用いられている。世俗的な用途としては権力の象徴として戦場に持ち出され、管楽器とともに用いられて軍楽の基となり、純粋な楽器へと発展していったほか、情報伝達の具ともなった(トーキング・ドラム)。
膜鳴楽器としては、古くは“つづみ”という呼称が存在し、その語源には諸説あって定めがたいが、これに“鼓(皷)”の字を当てることが早くから行われた。考古学的には、埴輪の“太鼓を打つ人”(群馬県佐波郡出土)に見られるごとき膜鳴楽器の存在が考えられている。
しかし、中国文明との交流の結果、鼓類の一種である“大鼓(たいこ)”という呼称が定着するに及んで、日本の膜鳴楽器を、“つづみ”と“たいこ”とに区別するようになり、前者は、胴のくびれたもの、あるいはおもに桴(挟膜・ばち)を用いず手で打つものの総称として用い、それ以外のものを“たいこ”と総称しているが、その区別が必ずしも明確でない場合もある。日本の“たいこ”は、ほとんど桴で打奏される。
日本の太鼓類は、構造的には、胴の両端に2枚の革を当てて、紐で締める“締太鼓”の類と、胴の両端に革を直接張って鋲を打って、固定した“鋲打ち太鼓”に二分することができる。例外的に“団扇太鼓”のような一枚革のものもあるが、その例はきわめて少ない。太鼓類は、なんらかの台の上にのせるか、紐でつるすかするが、まれに手で握る柄の付いたものもあり、“団扇太鼓”は、その柄付太鼓の一種でもある。“締太鼓”には、さらに、その革に枠のあるものとないものとがある。また太鼓類全体を、胴の長さによって、長胴のものと短胴(平胴)のものとに分類することも可能である。
太鼓類を用いる音楽は、雅楽、能の囃子、歌舞伎の囃子、民俗芸能の囃子とあり、後2者においてはその種類も多い。ほかに、神道、仏教などの宗教においても、その行事の具として太鼓類も用い、また玩具としても用いられる。
そのほか、戦陣などで、法螺貝などとともに、軍楽器の一つとして用いられるものは、“陣太鼓(じんだいこ)”と称し、その種類もさまざまであって、奏法にもいろいろな流派があったが、現在では民俗芸能に遺存するのみである。街頭宣伝の“チンドン屋”が、鉦(かね)と組み合わせて用いる太鼓は、本来は平丸太鼓であったが、最近では救世軍の大太鼓などを転用することもある。
参考資料:『世界大百科事典』